にわか書評家、乱立
そもそも、「第5回ポプラ社小説大賞の受賞者は、どうも、水嶋ヒロらしい……」という第一報を目にしたのが、2chまとめブログだったのが、悪かったのだと思います。水嶋ヒロのネームバリューと、ポプラ社小説大賞の受賞作傾向を考えれば、その後の騒動とバッシングが、ありありと想像できました。
実際のところは、想像通りどころか、想像を超越するバッシングが起き(つい先日、Amazonで、キャンプに持って行く“着火剤”を検索したら、『KAGEROU』をおすすめされました。Amazonは未だに、そんな状態)、どれだけ客観的に読もうとしても、頭は自然と「バッシングの妥当性を検証」してしまう。
同じような状態の人、多かったんじゃないでしょうか。
突如、何万人もの『KAGEROU』書評家が誕生して、ああだこうだ意見を表明する事態になってしまった。バッシングが前提にあるので、村上春樹の新刊フィーバーとも、明らかに違う。
ちょっと、異常でしたよね。まるで、みんながみんな、小説を楽しむ行為を忘れてしまったかのように。
先日、今さらながら読書メーターを使い始めました。ここ2年くらいで読んだ本を登録していて、『KAGEROU』の存在を思い出しました。「出版から半年以上経った今なら、客観的に読めるかもしれない……」ふと直感して、再読する機会を得ました。
結論から言って、再読してよかった。素直に作品の魅力に目を向けられたように思います。初読時に雑念が多かったな……と思われる方、ぜひ再読してみてください。本当に、おすすめです。
以下、気がついたことを、まとめます。
新人賞受賞作である意味
斎藤智裕『KAGEROU』は、ポプラ社小説大賞という、新人賞の受賞作です。これは初読時にも指摘した内容なのですが、新人賞の受賞作というのは、大半が、技術水準が高くありません。編集者も付かない素人なので、当然です。
作家とは、文章の職人なので、成熟するためには多くの時間が必要です。書き始めて5年程度では、まだまだ、ひよっこ。金原ひとみさんのように、「中学生・高校生の頃から文学の英才教育を受けてきた」というのでもなければ、20代半ばの若者が、クオリティの高い小説など、書ける道理がありません。
要するに、『KAGEROU』を読んで、技術的な粗を探すのは、基本的には有意義ではありません。もちろん、読者が何を言おうが自由ではあるのですが、直木賞を受賞するようなベテラン作家の小説と、『KAGEROU』を比べて、「下手」だと指摘するのは、「まあ、当然ですよね」としか、返答のしようがない。
そもそもポプラ社小説大賞は、技術水準が決定打にはなり得ない(技術水準よりも高く評価しているポイントがある)賞です。たとえば、僕はポプラ社小説大賞受賞作(で単行本化されているもの)を全て読んでいますが、ポプラ社小説大賞史上もっとも技術水準が高かったのは、第3回の伊吹有喜『風待ちのひと』でした。しかし、特別賞止まり。
だったら、何を見るのか。
どんな題材を、どんな姿勢で書いているか?
新人賞受賞作の見所は、「これしかない」と、個人的に思っています。カッコつけて言えば、作家としての感性。
正当な評価の鍵
もう一つ重要なのは、
齋藤智裕は『KAGEROU』を、どんな人に読んでほしかったのか?
という視点です。
当然ですが、万人に受け入れられる小説など、存在しません。村上春樹の小説だって「小難しい」と避ける人がいますし、伊坂幸太郎の小説だって「軽すぎて何も残らない」と小馬鹿にする人がいるわけです。一方で、ただ言葉が羅列されているだけの意味不明な小説を喜んで読む人がいて、SFの細かな設定にケチをつけて盛り上がる人種なんかも存在する。
誰かが仕掛けたのか、それとも受け手側が勝手に盛り上がったのか分からないのですが、出版を前後して「『KAGEROU』は文学」という強いイメージが浸透していたように感じます。中には、純文学だと誤認していた人もいたようです(ポプラ社には純文学の編集部は存在しないので、どんな意味でも純文学ではあり得ません)。
そんなに高尚な小説なのか? だったら、俺が確かめてやろうじゃないか。
これが、そもそもの間違い。齋藤智裕は、果たして、斜に構えて自分の文学観を自慢したいような(イケメン俳優・水嶋ヒロに、劣等感剥むき出しの)人に向けて書いたのでしょうか。
齋藤智裕が志向したのは、“優れたライトノベル”である
ラノベというと、今では、萌え+セカイ系小説の代名詞のようになっていますが、本来は「初心者向け小説」程度の意味だったはずです。子供から10代までを明確にターゲットにした児童文学やジュブナイルとも、明確に異なります。
30年前はどうだったか知りませんが、昨今、小説を日常的に読む人間は、小説マニアのみになっています。つまり、日本国民の圧倒的大多数は、小説の初心者である、という状況です。そんな中で市場原理が働き、台頭を見せているのが、ライトノベル=「初心者向け小説」です。
具体的には、本屋大賞を受賞した『謎解きはディナーのあとで』を書いた東川篤哉や、『図書館戦争』シリーズがベストセラーになっている有川浩。これら作家陣の“優れたライトノベル”は、小説初心者に良質な読書体験を与え、読書マニアへの入口を提供しています。
僕に言わせれば、彼らは、文芸界の救世主。
齋藤智裕は、小説を年中読んでいる読書マニア向けにではなく、普段あまり小説を読まない、ジュブナイルや若者向けに、『KAGEROU』を書いたのではないか? もう少し踏み込めば、社会的地位を得ている人や、自ら切り開く実力の備わった人にではなく、悩んだり、途方に暮れたり、これから未来を掴み取ろうとしている(が、どうしていいか明確には分からない)人に向けて書いたのではないか? 作品を読んだ実感として、そんなふうに想像します。
そして、もし初心者向け小説という想像が正しければ、(技術的にもっと向上させる余地があるという点を除けば)試みは成功しています。ライトな文体も、例えばヤスオの脳天気さも、すべては意図だというわけです。
文学観自慢カッコ悪い
だから、「浅い」とか「何も残らない」と感じる人は、それでいいんです。単に、齋藤智裕が想定していた読者層に、合致しなかっただけ。残念でした、と次の本を手に取ればいい。
この点、「浅いから駄作だ」、と決め付けるのは、ただの《文学観自慢》です。俺はそんなに浅はかじゃないよ、と。
そんなこと、誰も尋ねていないのにね。
『KAGEROU』は、再評価されている
ところで、上記のような批判をする人が、『KAGEROU』の内容について、好き嫌い以外の基準で否定している主張を、見た経験がありません。
それどころか、読書メーターの感想を眺めると、意外に好評価が多い事実に気が付きます(もちろんここでも、《文学観自慢》は一定数湧いていますけど、まあ有名税でしょう)。
ちなみに、読書メーターの利用者は、読書ランキングを見る限り、比較的若年層が多いだろうと推測させます。つまり、仮説が正しいとすれば、『KAGEROU』が評価されやすい土壌であるはずです。公平を期すために、念のため。
技術面の不足の指摘や、嗜好の不一致など、ある意味どうにもできない問題を除外していくと、ちゃんと作品の魅力を受け取っている人が、かなりの数、存在していることが明らかになります。具体的に、彼らが、何を感じているのかというと、
「いいこと書いているじゃないか」
このひと言に集約できるのではないでしょうか(ぜひ、自身の目で判断してください)。
新人賞受賞作の見所である、「どんな題材を、どんな姿勢で書いているか」という観点からすると、『KAGEROU』は、評価されている小説と言えるのです。
齋藤智裕の感性(あるいは武器)
『KAGEROU』を読んで、なんと言っても僕が驚いたのは、齋藤智裕の“ひたむきさ”でした。
例えば、僕が信頼している読み手である、『新人賞をとって作家になる!』のかつきさんは、
著者が「本気」でこれを書いているのが救い難い。
と指摘しています。確かに、一般論としては、そうかもしれません。
しかし、僕の意見は逆です。この純朴さこそが、齋藤智裕の魅力だと思う。作為ではなく「本気」で『KAGEROU』を書き上げられたのが、齋藤智裕のオリジナリティであり、武器です。
この書き方では、凡人なら、十中八九、陳腐な小説に終わるでしょう。しかしなぜか、齋藤智裕の場合は、きちんと評価される小説に昇華しました。
正直、この謎を解き明かすのは容易ではありません。齋藤智裕の積み重ねてきた人生経験と、才覚の影響でしょうか。ポプラ社の編集者の手腕もあったはずです。
間違いなく言えるのは、「齋藤智裕の真似が出来る人間は、そうはいない」。言い換えれば、「齋藤智裕にしか書けない物語が、たくさんあるはずだ」。
僕は、齋藤智裕を評価します。
みなさんはどうでしょうか?
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